安倍首相の靖國神社参拝に敬意
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安倍内閣発足1周年となった昨年12月26日に、安倍晋三首相が靖國神社を参拝されました。
私は、自民党が野党だった平成24年秋に挙行された党総裁選挙の折にも、安倍候補が公務死された方々の追悼を大切に考えておられることとともに、自虐史観に囚われた戦後レジームからの脱却を志しておられることに共鳴し、必死で応援をしました。
もちろん安倍候補が主宰する「創生『日本』」の経済政策・社会政策作りの責任者として、経済政策の実行を期待したことも応援理由には含まれますが、やはり「国家観」の一致が大きな原動力でした。
よって、昨年末の靖國神社参拝については、1人の政治家として確たる信念の上に立った行動として敬意を表しましたし、今年以降も自然体で参拝を続けていただくことこそが、自国の戦没者慰霊を「外交問題」などにされてしまわない為の唯一の方法だと思っています。
ところが、この新年3が日の間にも、一部のニュース番組では外交問題化しようとする中国や韓国の反応を取り上げ、新聞にも「国家観より経済」と書いた記事が掲載されていました。
おまけに、「この際、A級戦犯を分祀するべきだ」とか「わだかまりなく参拝できる国立追悼施設を建設するべきだ」といった話も再燃しているようで、残念でなりません。
第1の論点は、靖國神社におけるいわゆる「A級戦犯」の合祀を問題視することの是非です。
2009年8月、民主党の岡田克也幹事長(当時)が、中国メディアの共同インタビューに対し、「靖國神社内に第2次世界大戦時のA級戦犯が祀られている限り、日本の首相は参拝に行くべきではない。なぜなら、A級戦犯はあの戦争の罪人であり、日本の首相として参拝するのは不適切だからだ」と語っておられました。
しかし、私は、そもそも現在の日本に「戦犯」なるものは存在しないと考えます。近代法では、刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅するからです。
いわゆる「A級戦犯」とされた方々についても、同様でしょう。
刑死された7人の方は、1948年12月23日に処刑され、戦勝国が断定した「罪」なるものは消滅しました。
1958年12月29日には最後の受刑者が釈放され、この日をもって日本に「戦犯」と呼ばれる方は存在しなくなったはずです。
また、合祀に至った経緯にも思いを致さなければなりません。
1952年、日本では、「戦犯の釈放」を求める大規模な国民署名運動が行われたそうです。
これを受けて国会は、1955年までに「戦犯の釈放・赦免を求める決議」を5回行っています。
併せて「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」を改正し、戦犯刑死者・獄死者のご遺族や戦犯として拘留中の方の処遇を、一般戦没者遺族や一般軍人軍属と同等にしました。
厚生省は、「遺族等援護法」の対象者を公務死とすることから、いわゆる戦犯も祭神名票に記載して靖國神社に送付しました。
靖國神社は、厚生省の名簿に基づいて霊璽簿と上奏簿を作り、上奏簿を宮中に届けた後に合祀したのだそうです。
1959年に最初の「戦犯合祀」が行なわれましたが、厚生省は「戦犯裁判の法務死亡者も合祀対象」と通達に明記しています。
靖國神社の元宮司様が「どうしても分祀するなら、国会決議のやり直し、遺族等援護法の再改正、過去に遺族に支払ったお金も返還してもらえ」と怒っておられましたが、当然の理屈だと感じました。
また、前記の法改正に際する審議の中で、1953年7月9日の衆議院厚生委員会で、社会党の堤ツルヨ衆議院議員は次の様に発言しておられます。
「処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になって保護されておるのに、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は靖國神社の中にさえ入れてもらえないというようなことを今日の遺族は非常に嘆いておられます。(中略)『遺族援護法』の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのが当然であると思います」
後世の政治家が、法改正によって合祀に至った経緯を無視し、当時の国民世論や国会の意思を否定する議論こそが傲慢なものに思えます。
第2の論点は、「何人もわだかまりなく参拝できる新たな国立追悼施設の設置が必要だ」という主張の是非です。
私は、戦没者慰霊は、一番の当事者である戦没者とご遺族のお気持ちに沿った形で行われるべきものだと思います。
靖國神社には年間約600万人もの方々が参拝され、戦没者慰霊の中心的施設として定着しています。
多くの戦没者のご遺書を拝読しますと、「もしも命を落とした時には、靖國神社に神として祀られ、永遠に追悼される」と信じて散華されたことが理解できますし、ご高齢になられても全国各地から靖國神社参拝の為に上京される多くのご遺族の姿を拝見しますと、国立追悼施設なるものの建設が良い選択だとは思えません。
安倍内閣に望みたいことは、「国家の為に尊い生命を捧げた方々に対して尊崇の念をもって感謝の誠を捧げる行為が、他国から干渉されるべき事柄ではないこと」、「戦勝国であれ、敗戦国であれ、いずれの国の戦没者も、後世の戦争の評価に関わりなく敬意をもって慰霊されるべきこと」を、誠意をもって内外に伝えていただきたいということです。
私は、自民党が野党だった平成24年秋に挙行された党総裁選挙の折にも、安倍候補が公務死された方々の追悼を大切に考えておられることとともに、自虐史観に囚われた戦後レジームからの脱却を志しておられることに共鳴し、必死で応援をしました。
もちろん安倍候補が主宰する「創生『日本』」の経済政策・社会政策作りの責任者として、経済政策の実行を期待したことも応援理由には含まれますが、やはり「国家観」の一致が大きな原動力でした。
よって、昨年末の靖國神社参拝については、1人の政治家として確たる信念の上に立った行動として敬意を表しましたし、今年以降も自然体で参拝を続けていただくことこそが、自国の戦没者慰霊を「外交問題」などにされてしまわない為の唯一の方法だと思っています。
ところが、この新年3が日の間にも、一部のニュース番組では外交問題化しようとする中国や韓国の反応を取り上げ、新聞にも「国家観より経済」と書いた記事が掲載されていました。
おまけに、「この際、A級戦犯を分祀するべきだ」とか「わだかまりなく参拝できる国立追悼施設を建設するべきだ」といった話も再燃しているようで、残念でなりません。
第1の論点は、靖國神社におけるいわゆる「A級戦犯」の合祀を問題視することの是非です。
2009年8月、民主党の岡田克也幹事長(当時)が、中国メディアの共同インタビューに対し、「靖國神社内に第2次世界大戦時のA級戦犯が祀られている限り、日本の首相は参拝に行くべきではない。なぜなら、A級戦犯はあの戦争の罪人であり、日本の首相として参拝するのは不適切だからだ」と語っておられました。
しかし、私は、そもそも現在の日本に「戦犯」なるものは存在しないと考えます。近代法では、刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅するからです。
いわゆる「A級戦犯」とされた方々についても、同様でしょう。
刑死された7人の方は、1948年12月23日に処刑され、戦勝国が断定した「罪」なるものは消滅しました。
1958年12月29日には最後の受刑者が釈放され、この日をもって日本に「戦犯」と呼ばれる方は存在しなくなったはずです。
また、合祀に至った経緯にも思いを致さなければなりません。
1952年、日本では、「戦犯の釈放」を求める大規模な国民署名運動が行われたそうです。
これを受けて国会は、1955年までに「戦犯の釈放・赦免を求める決議」を5回行っています。
併せて「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」を改正し、戦犯刑死者・獄死者のご遺族や戦犯として拘留中の方の処遇を、一般戦没者遺族や一般軍人軍属と同等にしました。
厚生省は、「遺族等援護法」の対象者を公務死とすることから、いわゆる戦犯も祭神名票に記載して靖國神社に送付しました。
靖國神社は、厚生省の名簿に基づいて霊璽簿と上奏簿を作り、上奏簿を宮中に届けた後に合祀したのだそうです。
1959年に最初の「戦犯合祀」が行なわれましたが、厚生省は「戦犯裁判の法務死亡者も合祀対象」と通達に明記しています。
靖國神社の元宮司様が「どうしても分祀するなら、国会決議のやり直し、遺族等援護法の再改正、過去に遺族に支払ったお金も返還してもらえ」と怒っておられましたが、当然の理屈だと感じました。
また、前記の法改正に際する審議の中で、1953年7月9日の衆議院厚生委員会で、社会党の堤ツルヨ衆議院議員は次の様に発言しておられます。
「処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になって保護されておるのに、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は靖國神社の中にさえ入れてもらえないというようなことを今日の遺族は非常に嘆いておられます。(中略)『遺族援護法』の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのが当然であると思います」
後世の政治家が、法改正によって合祀に至った経緯を無視し、当時の国民世論や国会の意思を否定する議論こそが傲慢なものに思えます。
第2の論点は、「何人もわだかまりなく参拝できる新たな国立追悼施設の設置が必要だ」という主張の是非です。
私は、戦没者慰霊は、一番の当事者である戦没者とご遺族のお気持ちに沿った形で行われるべきものだと思います。
靖國神社には年間約600万人もの方々が参拝され、戦没者慰霊の中心的施設として定着しています。
多くの戦没者のご遺書を拝読しますと、「もしも命を落とした時には、靖國神社に神として祀られ、永遠に追悼される」と信じて散華されたことが理解できますし、ご高齢になられても全国各地から靖國神社参拝の為に上京される多くのご遺族の姿を拝見しますと、国立追悼施設なるものの建設が良い選択だとは思えません。
安倍内閣に望みたいことは、「国家の為に尊い生命を捧げた方々に対して尊崇の念をもって感謝の誠を捧げる行為が、他国から干渉されるべき事柄ではないこと」、「戦勝国であれ、敗戦国であれ、いずれの国の戦没者も、後世の戦争の評価に関わりなく敬意をもって慰霊されるべきこと」を、誠意をもって内外に伝えていただきたいということです。