皆様への御礼①:村山談話発言に関するメールに対して
更新日:
ゴールデンウィーク後半からは、参院選に向けて発表する「J‐ファイル2013」や「政権公約集」作成のための作業、父親の死去、葬儀翌日から多くの党の会議や衆院本会議、3日連続の地方出張…と慌ただしく過ごし、自分のPCを開く余裕もありませんでした。
昨日と一昨日の深夜、久々にPCを開いてびっくり。大変な数のメールをいただいておりました。
拝読するだけで数時間を要し、皆様に個別に返信を差し上げることは不可能ですが、この場をお借りして御礼を申し上げます。
先ず、5月12日のNHK「日曜討論」で発言した村山談話に係る歴史認識の件です。
東京と奈良のPCに1100通を超える賛意の激励メールを賜りました。
「党内外からの批判に意気消沈することなく、仕事に励め」…という温かいお気持ちによるものと、感謝を申し上げます。
勿論、厳しいお叱りのメールも6通いただき、真摯に拝読致しました。
村山談話に関しては、平成7年以来、月刊誌への原稿掲載や講演の機会などに主張し続けてきた自らの信念は変わりませんが、政調会長という立場での私の発言が内閣や自民党に迷惑をかけてしまったのは事実です。
政調会長就任以来、「安定した政治」の為に「政府と与党の一体感」を何よりも重視してきた私は、毎日2回行われる官房長官記者会見の内容や、衆参予算委員会での総理や閣僚の答弁には注意深く目を通し、内閣の方針と自民党の発信が大きく食い違わないように努力を続けてまいりました。
よって、先月の予算委員会での安倍総理の答弁内容等は把握しており、「侵略の定義について様々な学説があること」、「戦後70年には新しい歴史見解を発表される予定であること」なども含め、自分の発言と安倍内閣の方針に大きな齟齬が生じていたことに気付いておりませんでした。
ところが、5月10日金曜日夕刻の記者会見で官房長官が「村山談話を全面的に引き継ぐ」趣旨の発言をされたことを知らないまま、地方出張に出かけてしまい、出張先から中継でテレビ出演してしまったのです。
この点については、私自身の情報収集不足によって「政府と与党の一体感」を損ねたこととなり、内閣及び自民党関係者、国民の皆様にお詫びを申し上げます。
1人の政治家としての主張(村山談話と不戦条約の解釈)については、2年後に安倍内閣が新たな歴史見解を検討され、原案を自民党にお示しいただいた段階で、改めて党内議論の場で申し上げてまいります。
☆☆以下、11年前の2002年に月刊誌に掲載された拙稿の一部抜粋です☆☆
(前文略)
しかし、このように近隣諸国から次々と理不尽な要求がなされるのも、日本の側に責任がある。過去の戦争について「政府見解」をもって反省し謝罪しているわけだが、あまりにも具体性に欠け、情緒的に過ぎやしないか。
私は、今一度、冷静に政府見解の文言を精査し、変更すべき時に来ていると考える。
現在の政府見解は、平成7年の村山富市首相談話を踏襲していると言われる。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明致します」
(平成7年8月15日・戦後50周年の終戦記念日にあたって)
第1に、この見解は、過去のどの戦争のいかなる行為に対する反省であり謝罪なのかが明らかではない。
第2に、現在の政府に反省や謝罪の主体者としての権利があるのかどうかも明らかでない。
広辞苑によると「反省」とは「自分の過去の行いを省みること」であり、「謝罪」とは「自分の罪や過ちを詫びること」となっている。
近代法の原則では「罪は犯した人に専属するもの」であるから、日本は世界で唯一、日本人に生まれただけで罪であり反省と謝罪をすべしという「民族責任論」を唱えていることになる。
ドイツのワイツゼッカー元大統領は「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団ではなく個人的なものであります」「今日の人口の大部分は、あの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人達は、自分が手を下していない行為に対して自らの罪を告白することは出来ません」と発言している。
また、現在の米国大統領の父親であるブッシュ元大統領は、過去の原爆投下を謝罪するかどうかを問われて「私からはありえない」と答えている。「罪も無い市民の死を悼むし、米軍のそうした攻撃で子供を失った家族に心から同情する。しかし、私は同じ飛行隊の同僚の母親達にも同情する。戦争は地獄だ。謝罪を求められるいわれはない。そうした考えは歴史に対するひどい見直し論だ。トルーマン大統領は厳しい決断に直面し、その決断は正しかった。それは何百万人もの米国民の命を救った」「我々が言っているのは、忘れよう、そして一緒に前を向いて進もうということだ」。
2人とも、自らや現在の国家が過去の戦争に関する反省や謝罪の主体者たりえない事を語っている。
第3に、「国策を誤り」という表現だが、謙虚に見えて実は非常に傲慢な発想だと思う。
もしも先の大戦で日本が戦勝国となっていたら、東京裁判で一方的に断罪されることがなかったとしたら、この見解は変わっていなかっただろうか。
現代に生きる私たちが先の大戦について書かれたものを読んで「何故、諸大国を相手に勝ち目のない戦争をしてしまったのか」と嘆くことは簡単だが、前記同様、当時の日本を取り巻いていた国際環境の中で当時の政権が決断したことを国策の誤りと決め付けて断罪する資格が、現在の政治家にあるとは思えないのだ。
当時の日本が取り得た「他の選択肢」を、自信をもって示せる政治家など居ないと思う。
第4に「植民地支配」への反省もしているが、これは、過去の戦争で先人が流した血の対価としての領土を、戦勝国として条約に基づいて獲得した事実そのものを反省しているのだろうか?
例えば、日本の支那における諸権益は、日清戦争以降の日支間条約によって定められていたものである。日韓併合は、1910年調印の「日韓併合に関する条約」によって実現し、当時、ロシアと英国はこれを了承し、米国も異議を唱えていない。
国家間で結ばれた条約に基づいた植民地化であっても被統治民となった方々の無念や屈辱感に思いを致すことは大切だと思う。
しかし、当時の条約に基づく事実全体への反省や謝罪を現在の日本政府が行なうとしたら、これも傲慢な話である。
間接的に、米国のフィリピン併合、英国のビルマ・シンガポール・マラヤ・香港領有、オランダのボルネオ・ジャワ・セレベス領有、フランスのラオス・カンボジア攻略なども非難の対象としていることになる上、戦後、サンフランシスコ条約14条の対象外であった諸国に対して、「賠償」ではなく「経済協力」の形で多額の資金を支払ってきた先人の外交努力を無駄にするものである。
第5に「侵略」という概念についても、村山談話では余りにもアバウトに簡単に使われていると思う。
ちなみに、村山首相は、衆議院予算委員会で「総理は侵略戦争と思って戦場に行ったか?」との私の質問に対して「当時はやはり、そういう教育を受けていたこともあって、お国の為と思って行った」と答弁されている。
その戦争が自衛戦争なのか、いわゆる侵略戦争なのかは、当時の「国家意志」の問題である。
国民は天皇陛下の勅語によって国家意志を理解したものと思われる。
先の大戦開戦時の昭和天皇の勅語は「米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う。帝国の存立つ、またまさに危殆に瀕せり。帝国は今や、自存自衛のため決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり」としている。
政府は具体的にどの戦争をどういう法的根拠で侵略戦争と解釈しているのか、当時の国家意志をどう理解するのかを明確にしなければならない。
果たして国際法上の「侵略戦争」の定義とは何か?
まず、国家は基本権として、開戦権、交戦権という「戦争権」を認められており、その上で、1899年及び1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約」によって交戦法規が定められている。
具体的には、非戦闘員殺傷の禁止、非軍事目標や非防守都市攻撃の禁止、残虐兵器使用の禁止、捕虜虐待の禁止である。これに違反した個人は「戦争犯罪人」として処罰の対象とされたのだ。
日本で言う「侵略戦争」に近い定義が登場したのは、1928年にパリで60ヵ国により締結された「ケロッグ・ブリアン条約(不戦条約)」からだと思う。
この条約では、国際紛争解決の手段としての戦争を非としているが、批准にあたって各国から条件が付けられ、ここで言う「戦争」は「WAR OF AGRESSION(侵攻戦争)」であって「自衛戦争」は含まれないと解されることとなった。
英国は「植民地を含む自国領域防衛のみならず、海外の自国権益保護も自衛と認める」と宣言している。
「侵攻戦争」とは、「AGRESSION」をそのまま和訳すれば「自国と平和状態にある国に向かい、相手側が挑発行為をしたわけでもないのに、武力行動をとること」と解される。
更には、当時、米国国務長官ケロッグが「自国が行なう戦争が、自衛戦争であるか侵攻戦争であるかは、各国自身が認定すべきものであって、他国や国際機関が決定できるものではない」と主張し、米国政府公文により、明確に「自己解釈権」の概念が発表されている。
不戦条約をもってしても、自己解釈権はもとより、満州事変に到るまでの張作霖・学良親子の条約違反、日本人に対する挑発行為、米国の中立非遵守、支那事変に到るまでの国民政府軍による辛丑条約違反と挑発行為、太平洋戦争に到るまでの米英両国から国民党政権への爆撃機供与や経済的援助、ABCD包囲網による経済的封鎖、ことに石油の全面禁輸といった挑発行為に鑑みると、満州事変以降の戦争を「侵攻戦争」と総括するには無理がある。
ケロッグ国務長官自身が、1928年12月7日に米国上院外交委員会において「国家が相手国に対して攻撃を加えること無くして、単に経済封鎖することも戦争行為である」と認めているのだ。
更に、不戦条約は列国の植民地領有を基盤とした国際秩序の現状維持を狙ったものとの有力な学説も有る。
また、1933年ロンドンで「侵攻の定義に関する条約」が締結されているが、当事国はアフガニスタン、エトアニア、ラトビア、ペルシャ、ポーランド、ルーマニア、トルコ、ソビエトのみである。
その後では、1974年12月14日、国連第29回総会で採択された「DEFINITION OFAGRESSION 」がある。外務省は「侵略の定義に関する決議」と訳しているようだが、過去の条約の内容から「侵攻の定義に関する決議」とする方が正確だろう。
この決議では、1条で「侵攻とは、一国による他国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に定められたものを言う」とし、3条では、「宣戦布告の有無に関わり無く侵攻行為とされるもの」として、「一国の軍隊による他国の領土に対する侵入若しくは攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果として生じた軍事占領、又は武力の行使による他国の領土の全部若しくは一部の併合」や「他国の領土に対する砲爆撃・武器の使用」や「他国の港や沿岸の封鎖」などを挙げている。
この決議は、まさに「現代の価値観」に基づくもので、私の世代には最も理解しやすいものであるが、事後法による裁きを禁じた「法の不遡及の原則」に照らすと、この決議をもってして過去の戦争責任を云々できるものではない。
また、この決議にも2条において「国家による憲章違反の武力の先制的行使は、侵攻行為の一応の証拠を構成する。ただし、安全保障理事会は、憲章に従い、侵攻行為が行なわれたとの決定が他の関連状況に照らして正当化されないとの結論を下すことが出来る」として、逃げ道を作っている。
加えて、「総会決議」という性質上、国連加盟国は決議を尊重すべきではあるものの、遵守義務という法的拘束力は無い。つまり、いつの日かこの決議内容が正式に条約として法典化された時に初めて、「侵攻は国際犯罪である」と認められるのである。
また、日本が「侵略国家」の烙印を押され、戦後57年経った現在も日本人が肩身の狭い生き方を強いられる結果を生んだ「東京裁判の違法性」については、多くの研究者によってすでに明らかにされているところだが、この裁判の管轄権が最後まで明示されず、根拠法が不明だった上、太平洋戦争のみならず、満州事変やノモンハン事件にまで対象が拡大された。最後は「平和に対する罪」や「人道に対する罪」などといった事後法によって裁かれたことも、再度、国家として検証すべき点だろう。
サンデー・プロジェクトにて私が言及したマッカーサー証言についても、詳しく触れておく。
1950年10月15日、ダグラス・マッカーサー元帥はトルーマン大統領との会談の中で「東京裁判は誤りだった」と伝えた。
更に1951年5月3日、米国連邦議会上院軍事外交合同委員会で次のような証言をしている。
「日本は、絹産業以外には、固有の産物は殆ど何も無い。彼らには綿が無い、羊毛が無い。石油の産出が無い。錫が無い。ゴムが無い。その他多くの原料が欠如している。そしてそれら全ての物がアジア海域には存在していた。もしもこれらの原料の供給が断ち切られたら、1000万人から1200万人の失業者が発生するであろう事を彼らは恐れていた。従って、彼らが戦争に飛び込んで行った動機は、大部分がセキュリティーの必要に迫られてのことだった」。
この様に、政府見解に言う「過去の戦争」の発生した時点において、日本が国際法違反にかかる「侵攻戦争」を行なったとの解釈は困難である上、日本語でイメージされる「侵略」を定義した法は存在しない。
教科書には、日本の行為は「侵略」と記してあるものの、外国が行なった同様の行為については「進出」「遠征」「南下」「進撃」と記されている。
ソ連軍は「満州・朝鮮に進出してきました」「満州や南樺太、千島に進撃した」となっているし、北朝鮮は「武力統一を目指して南下した」となっている。
他国の行為に関しては、国際法の正確なニュアンスを保ち、日本については敢えて「侵略」という文言を当てはめるのは、ダブル・スタンダードではないだろうか?
日本政府が他国に対して反省し、謝罪しなければならないとすれば、それは個々の戦闘行為におけるハーグ陸戦法規違反事項についてであろう。
昨今のアフガンに対する米軍の軍事行動でも、民間人や非軍事施設に対する誤爆疑惑が取り沙汰されているが、戦闘においては、いずれの交戦国でも多かれ少なかれ、この過ちを犯しているはずだ。
先の大戦でも、米国による原爆投下は「残虐兵器の使用」と「非戦闘員殺傷」に当たるし、B29による空爆も「非軍事施設攻撃」や「非戦闘員殺傷」に触れる。
政治家としての自らのことを考えると、このように戦争責任を限定するような言動は致命傷になりかねない。
過去の閣僚が、この問題を冷静に検証しようとしては、その職を追われている。マスコミが作る世の中の空気を考えると「日本は侵略国家です。謝罪と償いを続けます」と言い切った方が、人道主義者として一般受けもするし、楽に渡っていけるということも、十分解っている。
しかし、漠然とした「戦争責任」を安易に認め、何に対する謝罪かも明らかにせず、自ら現代の外交交渉の足枷とし、謝罪外交・土下座外交に甘んじることは主権国家として実に無責任な姿勢だと言わざるを得ない。アジア諸国に対しても、むしろ無礼な振る舞いだろう。「民族責任論」を振り回すことで、日本人の誇りも傷つき、次代を担う子供たちの教育にも悪影響が出てしまっている。
今一度、政府も国民もマスコミも立ち止まって、タブー視せずにこの問題を緻密に研究し、議論を深め、新たな政府見解を模索すべき時ではなかろうか。
そして、私たち日本人に出来ることは、戦闘に巻き込まれて命を落とした国内外の罪の無い市民の死を悼み、国策に殉じて散華された軍人の死を悼むこと、そして政府が為すべきことは、平和維持の為の外交努力を続け、自衛の為の備えを怠らず、平和の尊さを理解させる教育を行なうことではなかろうか。
加えて、1947年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し日本が独立を回復するまでの占領下の6年余に制定された法律を、憲法も含めて全て見直すことだ。
1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約」は、付則第43条において「占領者は占領地の現行法律を尊重すべき」旨を定めている。
日本に主権が認められていなかった時期に、他国の関与によって制定された法律について、今度は主権国家として主体的に制定しなおす作業がなされない限り、日本の戦争の総括もありえない。
(後文略)
昨日と一昨日の深夜、久々にPCを開いてびっくり。大変な数のメールをいただいておりました。
拝読するだけで数時間を要し、皆様に個別に返信を差し上げることは不可能ですが、この場をお借りして御礼を申し上げます。
先ず、5月12日のNHK「日曜討論」で発言した村山談話に係る歴史認識の件です。
東京と奈良のPCに1100通を超える賛意の激励メールを賜りました。
「党内外からの批判に意気消沈することなく、仕事に励め」…という温かいお気持ちによるものと、感謝を申し上げます。
勿論、厳しいお叱りのメールも6通いただき、真摯に拝読致しました。
村山談話に関しては、平成7年以来、月刊誌への原稿掲載や講演の機会などに主張し続けてきた自らの信念は変わりませんが、政調会長という立場での私の発言が内閣や自民党に迷惑をかけてしまったのは事実です。
政調会長就任以来、「安定した政治」の為に「政府と与党の一体感」を何よりも重視してきた私は、毎日2回行われる官房長官記者会見の内容や、衆参予算委員会での総理や閣僚の答弁には注意深く目を通し、内閣の方針と自民党の発信が大きく食い違わないように努力を続けてまいりました。
よって、先月の予算委員会での安倍総理の答弁内容等は把握しており、「侵略の定義について様々な学説があること」、「戦後70年には新しい歴史見解を発表される予定であること」なども含め、自分の発言と安倍内閣の方針に大きな齟齬が生じていたことに気付いておりませんでした。
ところが、5月10日金曜日夕刻の記者会見で官房長官が「村山談話を全面的に引き継ぐ」趣旨の発言をされたことを知らないまま、地方出張に出かけてしまい、出張先から中継でテレビ出演してしまったのです。
この点については、私自身の情報収集不足によって「政府と与党の一体感」を損ねたこととなり、内閣及び自民党関係者、国民の皆様にお詫びを申し上げます。
1人の政治家としての主張(村山談話と不戦条約の解釈)については、2年後に安倍内閣が新たな歴史見解を検討され、原案を自民党にお示しいただいた段階で、改めて党内議論の場で申し上げてまいります。
☆☆以下、11年前の2002年に月刊誌に掲載された拙稿の一部抜粋です☆☆
(前文略)
しかし、このように近隣諸国から次々と理不尽な要求がなされるのも、日本の側に責任がある。過去の戦争について「政府見解」をもって反省し謝罪しているわけだが、あまりにも具体性に欠け、情緒的に過ぎやしないか。
私は、今一度、冷静に政府見解の文言を精査し、変更すべき時に来ていると考える。
現在の政府見解は、平成7年の村山富市首相談話を踏襲していると言われる。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明致します」
(平成7年8月15日・戦後50周年の終戦記念日にあたって)
第1に、この見解は、過去のどの戦争のいかなる行為に対する反省であり謝罪なのかが明らかではない。
第2に、現在の政府に反省や謝罪の主体者としての権利があるのかどうかも明らかでない。
広辞苑によると「反省」とは「自分の過去の行いを省みること」であり、「謝罪」とは「自分の罪や過ちを詫びること」となっている。
近代法の原則では「罪は犯した人に専属するもの」であるから、日本は世界で唯一、日本人に生まれただけで罪であり反省と謝罪をすべしという「民族責任論」を唱えていることになる。
ドイツのワイツゼッカー元大統領は「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団ではなく個人的なものであります」「今日の人口の大部分は、あの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人達は、自分が手を下していない行為に対して自らの罪を告白することは出来ません」と発言している。
また、現在の米国大統領の父親であるブッシュ元大統領は、過去の原爆投下を謝罪するかどうかを問われて「私からはありえない」と答えている。「罪も無い市民の死を悼むし、米軍のそうした攻撃で子供を失った家族に心から同情する。しかし、私は同じ飛行隊の同僚の母親達にも同情する。戦争は地獄だ。謝罪を求められるいわれはない。そうした考えは歴史に対するひどい見直し論だ。トルーマン大統領は厳しい決断に直面し、その決断は正しかった。それは何百万人もの米国民の命を救った」「我々が言っているのは、忘れよう、そして一緒に前を向いて進もうということだ」。
2人とも、自らや現在の国家が過去の戦争に関する反省や謝罪の主体者たりえない事を語っている。
第3に、「国策を誤り」という表現だが、謙虚に見えて実は非常に傲慢な発想だと思う。
もしも先の大戦で日本が戦勝国となっていたら、東京裁判で一方的に断罪されることがなかったとしたら、この見解は変わっていなかっただろうか。
現代に生きる私たちが先の大戦について書かれたものを読んで「何故、諸大国を相手に勝ち目のない戦争をしてしまったのか」と嘆くことは簡単だが、前記同様、当時の日本を取り巻いていた国際環境の中で当時の政権が決断したことを国策の誤りと決め付けて断罪する資格が、現在の政治家にあるとは思えないのだ。
当時の日本が取り得た「他の選択肢」を、自信をもって示せる政治家など居ないと思う。
第4に「植民地支配」への反省もしているが、これは、過去の戦争で先人が流した血の対価としての領土を、戦勝国として条約に基づいて獲得した事実そのものを反省しているのだろうか?
例えば、日本の支那における諸権益は、日清戦争以降の日支間条約によって定められていたものである。日韓併合は、1910年調印の「日韓併合に関する条約」によって実現し、当時、ロシアと英国はこれを了承し、米国も異議を唱えていない。
国家間で結ばれた条約に基づいた植民地化であっても被統治民となった方々の無念や屈辱感に思いを致すことは大切だと思う。
しかし、当時の条約に基づく事実全体への反省や謝罪を現在の日本政府が行なうとしたら、これも傲慢な話である。
間接的に、米国のフィリピン併合、英国のビルマ・シンガポール・マラヤ・香港領有、オランダのボルネオ・ジャワ・セレベス領有、フランスのラオス・カンボジア攻略なども非難の対象としていることになる上、戦後、サンフランシスコ条約14条の対象外であった諸国に対して、「賠償」ではなく「経済協力」の形で多額の資金を支払ってきた先人の外交努力を無駄にするものである。
第5に「侵略」という概念についても、村山談話では余りにもアバウトに簡単に使われていると思う。
ちなみに、村山首相は、衆議院予算委員会で「総理は侵略戦争と思って戦場に行ったか?」との私の質問に対して「当時はやはり、そういう教育を受けていたこともあって、お国の為と思って行った」と答弁されている。
その戦争が自衛戦争なのか、いわゆる侵略戦争なのかは、当時の「国家意志」の問題である。
国民は天皇陛下の勅語によって国家意志を理解したものと思われる。
先の大戦開戦時の昭和天皇の勅語は「米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う。帝国の存立つ、またまさに危殆に瀕せり。帝国は今や、自存自衛のため決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり」としている。
政府は具体的にどの戦争をどういう法的根拠で侵略戦争と解釈しているのか、当時の国家意志をどう理解するのかを明確にしなければならない。
果たして国際法上の「侵略戦争」の定義とは何か?
まず、国家は基本権として、開戦権、交戦権という「戦争権」を認められており、その上で、1899年及び1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約」によって交戦法規が定められている。
具体的には、非戦闘員殺傷の禁止、非軍事目標や非防守都市攻撃の禁止、残虐兵器使用の禁止、捕虜虐待の禁止である。これに違反した個人は「戦争犯罪人」として処罰の対象とされたのだ。
日本で言う「侵略戦争」に近い定義が登場したのは、1928年にパリで60ヵ国により締結された「ケロッグ・ブリアン条約(不戦条約)」からだと思う。
この条約では、国際紛争解決の手段としての戦争を非としているが、批准にあたって各国から条件が付けられ、ここで言う「戦争」は「WAR OF AGRESSION(侵攻戦争)」であって「自衛戦争」は含まれないと解されることとなった。
英国は「植民地を含む自国領域防衛のみならず、海外の自国権益保護も自衛と認める」と宣言している。
「侵攻戦争」とは、「AGRESSION」をそのまま和訳すれば「自国と平和状態にある国に向かい、相手側が挑発行為をしたわけでもないのに、武力行動をとること」と解される。
更には、当時、米国国務長官ケロッグが「自国が行なう戦争が、自衛戦争であるか侵攻戦争であるかは、各国自身が認定すべきものであって、他国や国際機関が決定できるものではない」と主張し、米国政府公文により、明確に「自己解釈権」の概念が発表されている。
不戦条約をもってしても、自己解釈権はもとより、満州事変に到るまでの張作霖・学良親子の条約違反、日本人に対する挑発行為、米国の中立非遵守、支那事変に到るまでの国民政府軍による辛丑条約違反と挑発行為、太平洋戦争に到るまでの米英両国から国民党政権への爆撃機供与や経済的援助、ABCD包囲網による経済的封鎖、ことに石油の全面禁輸といった挑発行為に鑑みると、満州事変以降の戦争を「侵攻戦争」と総括するには無理がある。
ケロッグ国務長官自身が、1928年12月7日に米国上院外交委員会において「国家が相手国に対して攻撃を加えること無くして、単に経済封鎖することも戦争行為である」と認めているのだ。
更に、不戦条約は列国の植民地領有を基盤とした国際秩序の現状維持を狙ったものとの有力な学説も有る。
また、1933年ロンドンで「侵攻の定義に関する条約」が締結されているが、当事国はアフガニスタン、エトアニア、ラトビア、ペルシャ、ポーランド、ルーマニア、トルコ、ソビエトのみである。
その後では、1974年12月14日、国連第29回総会で採択された「DEFINITION OFAGRESSION 」がある。外務省は「侵略の定義に関する決議」と訳しているようだが、過去の条約の内容から「侵攻の定義に関する決議」とする方が正確だろう。
この決議では、1条で「侵攻とは、一国による他国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に定められたものを言う」とし、3条では、「宣戦布告の有無に関わり無く侵攻行為とされるもの」として、「一国の軍隊による他国の領土に対する侵入若しくは攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果として生じた軍事占領、又は武力の行使による他国の領土の全部若しくは一部の併合」や「他国の領土に対する砲爆撃・武器の使用」や「他国の港や沿岸の封鎖」などを挙げている。
この決議は、まさに「現代の価値観」に基づくもので、私の世代には最も理解しやすいものであるが、事後法による裁きを禁じた「法の不遡及の原則」に照らすと、この決議をもってして過去の戦争責任を云々できるものではない。
また、この決議にも2条において「国家による憲章違反の武力の先制的行使は、侵攻行為の一応の証拠を構成する。ただし、安全保障理事会は、憲章に従い、侵攻行為が行なわれたとの決定が他の関連状況に照らして正当化されないとの結論を下すことが出来る」として、逃げ道を作っている。
加えて、「総会決議」という性質上、国連加盟国は決議を尊重すべきではあるものの、遵守義務という法的拘束力は無い。つまり、いつの日かこの決議内容が正式に条約として法典化された時に初めて、「侵攻は国際犯罪である」と認められるのである。
また、日本が「侵略国家」の烙印を押され、戦後57年経った現在も日本人が肩身の狭い生き方を強いられる結果を生んだ「東京裁判の違法性」については、多くの研究者によってすでに明らかにされているところだが、この裁判の管轄権が最後まで明示されず、根拠法が不明だった上、太平洋戦争のみならず、満州事変やノモンハン事件にまで対象が拡大された。最後は「平和に対する罪」や「人道に対する罪」などといった事後法によって裁かれたことも、再度、国家として検証すべき点だろう。
サンデー・プロジェクトにて私が言及したマッカーサー証言についても、詳しく触れておく。
1950年10月15日、ダグラス・マッカーサー元帥はトルーマン大統領との会談の中で「東京裁判は誤りだった」と伝えた。
更に1951年5月3日、米国連邦議会上院軍事外交合同委員会で次のような証言をしている。
「日本は、絹産業以外には、固有の産物は殆ど何も無い。彼らには綿が無い、羊毛が無い。石油の産出が無い。錫が無い。ゴムが無い。その他多くの原料が欠如している。そしてそれら全ての物がアジア海域には存在していた。もしもこれらの原料の供給が断ち切られたら、1000万人から1200万人の失業者が発生するであろう事を彼らは恐れていた。従って、彼らが戦争に飛び込んで行った動機は、大部分がセキュリティーの必要に迫られてのことだった」。
この様に、政府見解に言う「過去の戦争」の発生した時点において、日本が国際法違反にかかる「侵攻戦争」を行なったとの解釈は困難である上、日本語でイメージされる「侵略」を定義した法は存在しない。
教科書には、日本の行為は「侵略」と記してあるものの、外国が行なった同様の行為については「進出」「遠征」「南下」「進撃」と記されている。
ソ連軍は「満州・朝鮮に進出してきました」「満州や南樺太、千島に進撃した」となっているし、北朝鮮は「武力統一を目指して南下した」となっている。
他国の行為に関しては、国際法の正確なニュアンスを保ち、日本については敢えて「侵略」という文言を当てはめるのは、ダブル・スタンダードではないだろうか?
日本政府が他国に対して反省し、謝罪しなければならないとすれば、それは個々の戦闘行為におけるハーグ陸戦法規違反事項についてであろう。
昨今のアフガンに対する米軍の軍事行動でも、民間人や非軍事施設に対する誤爆疑惑が取り沙汰されているが、戦闘においては、いずれの交戦国でも多かれ少なかれ、この過ちを犯しているはずだ。
先の大戦でも、米国による原爆投下は「残虐兵器の使用」と「非戦闘員殺傷」に当たるし、B29による空爆も「非軍事施設攻撃」や「非戦闘員殺傷」に触れる。
政治家としての自らのことを考えると、このように戦争責任を限定するような言動は致命傷になりかねない。
過去の閣僚が、この問題を冷静に検証しようとしては、その職を追われている。マスコミが作る世の中の空気を考えると「日本は侵略国家です。謝罪と償いを続けます」と言い切った方が、人道主義者として一般受けもするし、楽に渡っていけるということも、十分解っている。
しかし、漠然とした「戦争責任」を安易に認め、何に対する謝罪かも明らかにせず、自ら現代の外交交渉の足枷とし、謝罪外交・土下座外交に甘んじることは主権国家として実に無責任な姿勢だと言わざるを得ない。アジア諸国に対しても、むしろ無礼な振る舞いだろう。「民族責任論」を振り回すことで、日本人の誇りも傷つき、次代を担う子供たちの教育にも悪影響が出てしまっている。
今一度、政府も国民もマスコミも立ち止まって、タブー視せずにこの問題を緻密に研究し、議論を深め、新たな政府見解を模索すべき時ではなかろうか。
そして、私たち日本人に出来ることは、戦闘に巻き込まれて命を落とした国内外の罪の無い市民の死を悼み、国策に殉じて散華された軍人の死を悼むこと、そして政府が為すべきことは、平和維持の為の外交努力を続け、自衛の為の備えを怠らず、平和の尊さを理解させる教育を行なうことではなかろうか。
加えて、1947年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し日本が独立を回復するまでの占領下の6年余に制定された法律を、憲法も含めて全て見直すことだ。
1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約」は、付則第43条において「占領者は占領地の現行法律を尊重すべき」旨を定めている。
日本に主権が認められていなかった時期に、他国の関与によって制定された法律について、今度は主権国家として主体的に制定しなおす作業がなされない限り、日本の戦争の総括もありえない。
(後文略)