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「美しく強い日本」へ⑦:先人の先見性

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 聖徳太子ゆかりの法隆寺でお馴染みの奈良県斑鳩町(いかるがちょう)。私の地元ですが、全国各地からお出かけ下さった方も多いと思います。
 この町の南には、巨大な大和川堤防がそびえ立ち、住民や田畑を守っています。
 

 大和川(やまとがわ)は、奈良盆地中央を北東から西に流れ、生駒山と金剛山の間(亀の瀬)を抜けて大阪湾に注ぐ1級河川です。
 奈良盆地を囲む山々から流れ出た水が、北から南から東から10本もの川となって大和川に流れ込むことから、奈良盆地中の水が集まる川でもあります。
 

 多くの支流が山から運んできた土砂が大和川に堆積するものですから、河床は高くなり、流域の斑鳩町、三郷町、安堵町、王寺町などは、昔から洪水の常襲地帯でした。
 

 今から約290年前の江戸時代中期にも、同地域の村々は幾度も大和川氾濫による被害に遭っていたようです。
 

 『斑鳩町史』(昭和54年版・史料編)には、享保3年(1718年)、享保6年(1721年)、享保10年(1725年)、享保13年(1728年)の大洪水に関する記録の一部が紹介されています。
 

 「竜田川橋落ながれ申候」(荒蒔村年代記)、「7月8日大風雨、同夜4つ時に止む。朝の間は巽風、昼後より北風生じ、依之伏見淀八幡の辺は大洪水にて2階住居仕候」(月堂見聞集)など、被災状況が目に浮かぶような記述です。
 

 特に目安村(現在の斑鳩町目安地区)の辺りは、大和川と竜田川に挟まれていることから、当時は度々の洪水に見舞われ、数十町歩が荒廃地となっていたそうです。
 

 そこで、目安村に住んでいた大庄屋(庄屋が長として管理する村を10数村も統括していた村役人)の助宗(すけそう=杉岡助三郎氏)は、たった1人で改善策を考案し、実行に移しました。
 

 私財を投げ打って、大規模な治水対策工事を始めたのです。
 助宗は、大和川に注ぐ竜田川の支流である塩田川を埋め立て、更に、排水路として三代川(みよがわ・江戸時代には見代川と書いた)を掘り抜きました。
 

 現在であれば、国、奈良県、斑鳩町が費用を分担して行うような2件の公共事業を独力起工したのですから、助宗は御先祖様から受け継いだ土地財産の殆どを使ってしまったことだろうと思います。
 

 この治水対策工事は、川の氾濫を防いだだけではなく、灌漑にも役立ちました。「土地改良事業」の走りと言ってもいいでしょう。

 彼は、国土交通省と農林水産省が所管する事業を、一手に実施したことになります。
 

 完工によって、助宗の地元の目安村はもとより、稲葉車瀬村、小吉田村、五百井村、服部村の5か村(町村合併後、5か村は全て斑鳩町に編入されたが、旧村名は大字名として残っている)で、米の増収が実現しました。
 以後、150年間以上に渡って、毎年570余石の収穫があったと記録されています。
 
 しかし、助宗が塩田川を埋め立てたことが、後に彼の生命を奪うことになりました。
 

 塩田川下流域の農民から京都奉行所に「水論訴訟」が提起されたのです。
 柳本・芝の両藩が仲裁して事件は解決したのですが、その後、助宗の独断専行(無許可工事)が幕府の逆鱗に触れ、家族とともに捕らえられてしまいます。
 

 享保14年(1729年)6月6日、助宗は刑死しました。財産没収、一家子孫断絶という厳しい処分だったそうです。
 

 助宗一家の墓は、極楽寺(法隆寺裏)の目安共同墓地内にあり、今も、8月には地元の方々による墓参が続けられています。
 

 助宗の刑死から177年後の明治39年(1906年)4月、目安村の上田安治郎氏他4名が発起人となり、融念寺(目安地区)の境内に、助宗の功績と刑死に至る事情を記した「断恨碑」を建立されました。
 

 毎年5月には、助宗が掘った三代川の恩恵を受けてきた5か大字(目安、稲葉車瀬、小吉田、五百井、服部)の住民は、仕事を1日休み、ヨモギ餅を作って助宗の法要を営み続けてこられました。断恨碑前には、年間を通じて季節の花が供えられています。
 

 昭和41年には、三代川上流の5か大字(新家、駅前、興留、阿波、並松)も加わり、10か大字の自治会が参加して、「三代川愛護会」を結成。助宗法要とともに河川の維持管理を行ってきました。最近では除草や清掃の他、河川敷にヒラドつつじを植栽する活動をして下さっています。

 一家子孫断絶となりましたから、助宗が親族の手によって供養されることは望めませんが、長い時を経てもなお血縁の無い多くの斑鳩町民に感謝され慕われ続けていることが、せめてもの救いです。
 

 三代川は、戦後に都市化が進んだ斑鳩町の最も重要な排水路となっており、斑鳩町民の暮らしや農業を守り続けています。
 例えば、稲葉車瀬地区では全国にファンを持つ立派な梨や葡萄が生産されるなど、斑鳩町は施設園芸農業の優良農地を擁する地域となりました。
 

 後世に生きる私たちも、助宗が命を懸けて断行した事業の恩恵を大いに享受しているのです。
 私自身は、国政に携わる者として、彼の「先見性」と「実行力」に心を動かされました。
 

 私たちの祖先は、幾度も大きな天災に見舞われ戦火に焼かれながらも、歯を喰いしばって立ち上がり、荒れた国土を復旧させ、産業を再興して生き抜いてこられました。
 

 助宗の存在は奈良県外では殆ど知られていませんが、全国各地に同様の物語があると思います。
 多くの無名の方々の必死の働きがあってこそ、今の私たちが生かされていることに感謝の思いは尽きません。


 

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